勝次(かつじ)インタビュー

インタビュー

公開日:2019/3/19

取材・撮影 茂田浩司

「蒲田のロッキー」勝次、知られざる「苦悩と失意の8年間」を語る。
~28歳で初戴冠、30歳でブレイクまでの軌跡

 4月20日(土)、東京・後楽園ホールで開催される「REBELS.60」のメインイベントは「ニンジャ」宮越慶二郎対「蒲田のロッキー」勝次。NJKFと新日本キックボクシング協会のエースがREBELSのリングで激闘するのだ。団体間の交流が急加速し「昔ならあり得なかった試合」が可能な時代を先取りした「夢の対決」の実現である。
 老舗・新日本キックの大看板を背負う勝次は、REBELS初参戦に燃えている。
「新日本キックボクシング協会はキックボクシング発祥の団体。だからこそ、他団体との戦いでは強さを見せつける責任があります。REBELSファンに『新日本キックの強さ』を見せます!!」
 勝次は、今でこそキックファンなら誰もが知る存在だが、初戴冠は28歳、KNOCK OUT初代ライト級王座決定トーナメントでの激闘の連続でブレイクしたのが30歳。格闘技界でも珍しい「遅咲きの男」である。実は、勝次は初めてチャンピオンベルトを巻くまでに「苦悩と失意の8年」を経験している。「蒲田のロッキー」が「引退寸前まで追い詰められた暗黒時代」を初めて告白する。






人生の指針を示してくれた父の死。
「親父の墓前にチャンピオンベルトを持っていく。
そうしなければ自分の人生は始まらない」



 勝次は1歳上の兄との二人兄弟。父は兵庫県で建設業を営み、バブル期は莫大な売り上げを上げて会社を急成長させた。だが、その後にバブルは崩壊し、株式市場は大暴落。父は、それまでに築き上げた資産を一気に失ってしまった。
「親父は株式投資で大損したらしくて、詳しく知らないんですけど、噂では『100億負債を抱えて、100億返した』そうです(苦笑)。今は兄が兵庫で建設業と不動産業をやっていて、最近は運送業も始めました」

 小中はサッカー少年。中学時代に見たテレビ番組「ガチンコファイトクラブ」で興味を持ち、高校から近所のキックボクシングジムに通い、アマチュアの試合に出て、タイ修行にも行った。
 そんな勝次に、父はいつもアドバイスを送ってくれた。
「ずっと『選手寿命よりも引退した後の方が長いんだから、そのことを考えながら選手生活を送りなさい』と言われてました。高校を卒業して専門学校に行ったのも親父の勧めです。専門学校でスポーツ、フィットネス、経営のことを勉強しました」

 高校時代にタイで開催されたアマチュアムエタイ世界大会に参戦した際、キック人生を変える出会いがあった。
「藤本ジムの鴇(稔之)さんが日本チームの団長で、参加していた石井達也さんと内田雅之さんにウォーミングアップでマススパーをして貰ったんです。そうしたら、僕の攻撃なんてなんも当たらないんですよ(苦笑)。『東京の選手はこんなにレベルが高いのか』とショックを受けていたら、一緒にタイに来ていた親父に『これからは鴇さんについていけ。東京に行ってこい』と言われて。専門学校を卒業して、二十歳の時に上京しました」

 藤本ジムに入門したが、当時はまだ簡単に考えていた。
「『1、2年でトップランカーになって、3年で兵庫に帰ろう』と思っていたんです。でも最初の頃は引き分けばかりであだ名は『分け次』、負けたら『負け次』と言われてました(苦笑)」

 なかなか勝てずに苦労していた頃、実家の母親から緊急の連絡が入った。
「上京2年目に母親から『お父さんにガンが見つかった。兵庫に帰ってこないといけないかもしれない』って。でも、その頃はキックを辞めることは考えられなかったし、このままやめて帰ったら東京に送り出してくれた親父にも顔向けできない、と思って。
 親父が一番応援してくれたし、レールじゃないですけど親父が『指針』を示してくれて『そこに向かって頑張ろう』と思ってやってきたんで」

 勝次は、ここで腹を決めた。
「チャンピオンになろう、親父にチャンピオンベルトを持っていこう、と決めました。それからもっと性根を入れて練習するようになって強くなりましたね」

 この時、21歳。だが、勝次にとっての辛く、厳しい試練はここから始まった。

 当時、新日本キックのライト級チャンピオンは同じ目黒藤本ジムの石井達也だった。
「達也さんがチャンピオンになった時は、一緒に練習してる先輩ですから本当に嬉しかったです。1年経って、達也さんが防衛した時も『よかった』だったんですけど、2回目に防衛した時はさすがに『俺にはいつチャンスが回ってくるんだろう?』と気づきました(苦笑)。同門対決はできなかったんで、達也さんがチャンピオンでいる限りは何年も待たなくてはいけなくて」

 悪いことは重なる。偶発的なトラブルに巻き込まれて、大怪我を負って入院。その入院中に父親の容態が悪化する。
「『親父が危篤』という連絡を受けて、すぐに退院して1か月間看病しました。親父は『余命3年』と言われながらも闘病して、頑張ったんですけどギリギリで3年持たずに亡くなりました。
 その時に『親父の墓の前に、新日本キックのチャンピオンベルトを持っていく』と誓ったんです。それをしないと自分の人生は始まらないな、と思って。導いてくれた親父に少しでも恩返ししないといけないんで、練習にも一層気合いが入りましたし、そっからまた強くなったんですよ」






何度も挫折を乗り越えて掴んだチャンピオンベルト
「長くて苦しかった。でも頑張る力は誰にも負けない」



 とはいえ、同門の石井がチャンピオンでいる限り、勝次にはタイトルマッチに出場する機会すらない。
「どうしたらアピールできるかを考えました。それで、興行のためにチケットを売る、熱い試合をして興行を盛り上げる、みんなから『達也さんより勝次の方が強いんじゃないか』という声が出るようにする。この3つを徹底的に頑張ったんですよ」

 今でこそ勝次が出場する大会には客席を大応援団が埋め尽くすことで有名だが、その始まりは自身のタイトルマッチ出場のための懸命なチケット営業だった。
「熱心じゃない選手もいますけど、僕はチケットの営業は生きるためにやってきたし、自分をアピールするためでもあったんで、まったく苦じゃないんですよ。
 その頃はめちゃめちゃ貧乏でした。ただ、そういうことは一切言わなかったんですけど『お金のない雰囲気』が自然と伝わってたのか(苦笑)、よく初対面の人にご飯をご馳走になってました。『いつでもご馳走するから』って言って貰ったり『応援するよ』ってスポンサーになって貰ったり。そうしていくうちに、チケットを買って応援に来てくれる人たちが少しずつ増えていったんです」

 懸命にチケットを売り、試合で結果を出した。それでも、なかなかタイトルマッチのチャンスは見えてこない。
 ある時、とうとう勝次の思いが爆発する。
「試合に勝って、思わず『伊原代表! 僕にチャンスをください!』ってアピールしたんです。イコール同門対決ですから、そっからジム内でギクシャクしましたね(苦笑)。達也さんとのスパーリングは殺し合いになりました。
 僕も思いっきり拳を握ってて、お互いに血を出しながら殴り合うので、見かねた先輩が『おーい、大丈夫か』って止めに入ってくれたこともありましたよ」

 2014年、石井が怪我のために王座返上。勝次の王座決定戦出場が決まった。4年待って、ようやく得たタイトルマッチのチャンス。しかし、勝次の初戴冠は一人の「天才少年」に阻まれてしまう。
「プロになって初めてのタイトルマッチで、応援団も初めて300人を越えて。『お待たせしました、やっと日本チャンピオンになれます!』って言っていたら、まだ19歳の翔栄(治政館)に判定で負けてしまったんです。応援団全員をがっかりさせてしまって、あの時は言葉がなかったですね……」

 翔栄は当時、キック界で注目を浴びた「晴山兄弟」の弟。ジュニアの時代から兄の雄大と共に「次世代のエース」と注目を浴びる存在だった。
「あの兄弟はすごくて、揃ってアマチュアムエタイ金メダル、K-1甲子園優勝、そして新日本キックのベルトも獲りました。特に翔栄は、那須川天心君の前の、初代『ジュニアのカリスマ』ですね。本当に強くて、同世代の子は誰も勝てなかったんで」

 しかしながら、格闘技は非情な世界だ。勝次の初戴冠を阻んだ「天才少年」翔栄の選手生命は、タイトルマッチでの勝次の一撃で絶たれてしまった。
「タイトルマッチの4ラウンド目に、思い切り右ストレートが入ったんです。クリーンヒットして、手応えもあって『よっしゃ!』と思ったんですけど、翔栄は効いている素振りを一切見せなかったんです。それを見て、僕もそれ以上は深追いできなかった。
 判定で負けて、控え室に行ったら翔栄が寝そべって頭を冷やしながらぐったりしているんです。『あれ、ダメージはあったんだな。試合中にダメージ出してくれよ』と思ったんですけど……。
 その何日後かに脳内出血が見つかったそうで、ドクターストップで彼は引退、せっかく獲ったベルトも返上になりました。僕はその1年後にタイトルマッチが組まれて、翔栄には『俺が獲るからな』って伝えて、ようやくベルトを獲りました」

 2015年3月15日、王座決定戦を制して悲願の日本ライト級チャンピオンを獲得。上京から8年、28歳での初戴冠だった。
 父の墓前にチャンピオンベルトを供えて、ようやく勝次は「苦悩の時代」にピリオドを打った。
「タイトルを獲るまでは本当に長くて、苦しかったです。再起不能になるかもしれないぐらいの大怪我をして、親父が亡くなって、賭けていた大事な試合に負けたり。現役引退が頭をよぎることもありました。
 だけど、そういう経験をして、乗り越えてきたからこそ、今、根性と目標に向かって頑張る力だけは絶対に、誰にも負けない自信があります」






REBELS初参戦で熱い試合を見せて、
新日本キックの強さを証明します



 勝次の名前を一躍、キック界に知らしめたのが2017年に開催された「KNOCK OUT初代ライト級トーナメント」だった。
 1回戦で優勝候補の不可思、準決勝では前口太尊と「倒し倒され」の激闘を展開。「新日本キックの勝次」の名を一躍、格闘技界に知らしめた。ダメージの蓄積もあり、決勝戦では森井洋介に敗れて凖優勝に終わったものの、イベントを盛り上げた勝次こそトーナメントMVP級の活躍だったといえよう。
「KNOCKOUTのトーナメントは『これで人生を変えるんだ』と覚悟を決めて、あのとっても狭いリングで(苦笑)目一杯殴り合いました。ダメージも相当負ってしまったんですけど、見に来てくれた応援団の人たちも喜んでくれましたし、応援してくれる人も増えました。
 僕は目標に向かって頑張っているだけですけど、チケットを買って応援に来てくれる人たちは、勝ったらものすごく喜んでくれますし、負けたら一緒に悔しがってくれるんです。そういう時は『キックボクシングをやっててよかった』と思います」

 今の目標は「WKBAのベルト」。3月の王座決定戦ではノラシン・シットムアンシ(タイ)の老獪さの前に、思うような攻撃を当てられず、延長の末に敗れた。
「前蹴りとコカしの上手さにやられました。最初に僕が踏み込む時のタイミングを読まれて、少し変えたりしたんですけど大きな修正ができなくて……」
 関係者によれば、勝次は試合前にコンディションを崩し、万全とは程遠い体調で試合に臨んだという。にもかかわらず、延長の6ラウンドまで戦い抜いたのだから、さすが「ド根性の男」だ。
「言い訳になるので言いたくなかったんですけど……、タイでの練習最終日、ペットモラコットに『勝次、来い!』と言われて予定外の追い込み練習に付き合って。そこで風邪を引いてしまって、帰国してから体調不良のまま4日で7・5キロ落としたんです。試合では全然動けなくて、悔しい負けでした。『次こそは』という思いが強くて、早くリベンジさせてください、と伊原代表にお願いしているんです。
 伝統あるWKBAの世界チャンピオンとしてREBELSに初参戦する予定で、本当に悔しかったんですけど、試合前からこの宮越戦が決まってたので、すぐに気持ちを切り替えました。
 僕は、他団体に出場する時『キックボクシング発祥の団体、新日本キックの強さを見せる』と決めてて、それは今回も変わらないです。タイでペットモラコットやペッタンたちトップ選手と練習して、ムエタイ特有の体をコントロールする技術や攻防の技術をたくさん学ぶことができたんです。そういう新たな面も見せたいですけど、きっと宮越選手とは殴り合いになると思うんですよ(笑)。
 KNOCKOUTのトーナメントで僕を知った人は『熱く、激しい闘い』を期待してると思いますし、宮越選手とならその期待に応えられると思うんです。僕も、気合いと根性の戦いになれば誰にも負けない自信がありますし、REBELSのファンの方に『さすが新日本キックのチャンピオンは強いな!』と言わせます。ぜひ期待してください」

プロフィール
勝次(かつじ/本名:高橋勝治)
所  属:新日本キックボクシング協会・藤本ジム
生年月日:1987年3月1日生まれ、32歳
出  身:兵庫県三木市
身  長:172cm
戦  績:60戦40勝(16KO)13敗7分。新日本キックボクシング日本ライト級王者

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